大麻産業が世界中で「グリーンラッシュ」と呼ばれるほどの盛り上がりをみせています。この場合の「大麻」が意味するものは「代替医療=薬草としての大麻」です。しかし、日本では「違法である」ため、大麻という言葉自体に忌避感をもたれやすく、オープンな議論ができない状況が続いています。どのように日本社会とコミュニケーションや議論をしていくべきか?健康社会学や健康行動科学をご専門とする徐淑子先生にお話を伺いました。
徐淑子(そう すっちゃ)
新潟県立看護大学准教授。精神保健福祉士。財団法人エイズ予防財団リサーチレジデント、広島大学歯学部助手、日本保健医療行動科学会奨励研究員、財団法人茨城県健康科学センター調査研究部を経て、現職。著作に「エイズとSTD(性感染症)と薬物依存」(日本評論社)
ヘルスコミュニケーションにおける「信頼」の問
ラボ:ご専門である健康社会学や健康行動科学について、また具体的にどういった研究をされているのか教えてください。
徐:健康現象というものは身体の中だけで起こるのではなく、心理、社会構造、環境、文化などさまざまな原因が関連しています。人々の健康や福祉、QOL(生活の質)に関する問題を身体以外のそうした見地から理解しようとする学問が「健康社会学」です。また健康社会学に隣接する分野になりますが、人間の病気と健康に関わるさまざまな行動について解明しようとする学問を「健康行動科学」といいます。これらの知識を健康教育、患者教育、当事者支援に生かせないか考え、HIV、薬物・アルコール依存症分野で研究活動を行っています。
ラボ:執筆された論文『諸外国における大麻合法化の動きと日本の薬物乱用防止教育:ヘルスコミュニケーションにおける「信頼」の問題』(*参考1)を拝見しました。「ダメ。ゼッタイ。」という日本の薬物教育について一石を投じる内容だったと思います。どのようなきっかけでこの論文を書くことになったのでしょうか?
徐:近年、欧州や北米を中心に「娯楽や医療目的での大麻使用が違法ではなくなる国や地域が増えている」という情報が日本のメディアでも多く報道され、広く一般に知られるようになりました。その結果、「大麻は本当に悪いものなのか?」 という漠然とした疑問をもつ人が増え、ある種の混乱が生まれているように見えます。そこから、現行の取り締まり中心の薬物政策や、薬物教育に対する社会の信頼が揺らいでいるのではないか、という疑問が浮かびました。そういった動機で論文化し、2019年に発表しました。
大麻に限らずどのようなテーマでも、専門的な知識を持っている人ならば、情報を集め、吟味し、正しいかどうかを自分自身で判断することができます。しかし、ほとんどの人はそれが出来ないため、「情報の中身」ではなく、「誰の言うことを信頼するか」を基準に判断する人が出てきます。情報発信する人にとって、信用してもらえるかどうかは、情報が受け入れられるかどうかを左右する重要な要因です。特に薬物問題に関しては「そもそも興味がない」という人が多いというデータ(*参考2)があります。知識も興味もなければ、日本の取り締まり当局や薬物教育の立案者の言うことが、唯一の「信頼できる情報源」になるでしょう。ですが、近年「海外の情報」という別の「権威ある情報源」が現れたことで混乱が生じています。人間は自分の考えと矛盾する情報に接すると、矛盾を解消しようとする心理が働くため、どちらかを否定したり、自分の意見を変えて調整するということが起こります。現在、「大麻は本当に悪いものなのか?」と疑問を持ち始めている人たちは、海外からもたらされる新しい情報に接して、日本の薬物政策や薬物教育という今まで信じていた「権威ある情報」の方に疑いを持っているということになります。社会全体のことを考えた場合、これがよい状況なのかはわかりません。政策立案者は疑われたままでもよいのでしょうか。
科学や事実に基づいた教育を行うために
ラボ:「ダメ。ゼッタイ。」というメッセージは科学的根拠がないと思う一方で、SNS上では「大麻は無害で、どんな病気でも治るのに、解禁されないのは製薬会社のせい」というような荒唐無稽な陰謀論が拡散されてしまうことがあります。カウンターとしての「イイ。ゼッタイ。」も「ダメ。ゼッタイ。」同様に根拠がありません。こういった社会的なコミュニケーションはどのように変化していくべきだとお考えですか?
徐:当然ですが、科学や事実に基づいた情報提供や健康教育をしていくことが大切です。しかし、話はそれほど単純ではありません。日本の薬物教育は、国の基本計画にもとづくトップダウンの傾向が強いということ。そして、何が科学的事実かという認定自体も、時代や社会背景に影響されるからです。欧米などと異なり、社会全体が大麻使用についての経験や知識がほとんどない現在の状況で、日本が国として「嗜好品や薬草としての大麻を解禁する」といった大きな方向転換をすることもないでしょう。とはいえ、日本の薬物教育も、グローバル時代に見合ったアップデートが必要でしょう。前述した論文の中では3つのことを提案しました。
- 薬物乱用防止の推進者や健康教育の担い手が、海外での大麻の位置づけの変化について十分な情報を持てるよう、情報提供や指導者研修を実施すること
- その上で、推進者や健康教育者は、さまざまな質問や疑問に「ダメ。ゼッタイ。」ありきの返答をするのではなく、海外における嗜好大麻合法化の判断根拠、多くの国で嗜好大麻の合法化に慎重である理由について答えられるよう備えること
- 大麻だけでなく、タバコやアルコール、処方薬等を含んだ新たな薬物教育の枠組みを生み出すこと
3については、例えば、大麻や違法薬物などは「物質そのもの」だけに焦点を当てるのではなく、「使用される状況や場面」に焦点を当てたアプローチも大切です。例えば、大学生ならば大学生活の中でお酒、タバコ、ドラッグに遭遇しやすい・関係しやすい場面、飲み会、サークルの合宿、学園祭、音楽フェスやライブハウスの活動、クラビング、デート、留学といった状況を想定し、「キャンパスヘルス」という観点から教育していく必要があります。そして、「ダメ。ゼッタイ。」のように、薬物使用者を最初から排除するのではなく、身近な仲間として助け合い、正しい知識・スキル・行動を共有し合う「ピア教育」(*参考3)という考え方も非常に重要です。
嘘や誇張がない現実に即した情報を
ラボ:日本社会で「大麻」は「ダメ。ゼッタイ。」に象徴されるような「過剰な、間違った」啓蒙を長く続けてきた結果、どうしても忌避感が先行しています。どうすれば、この忌避感を減らしていくことができるでしょうか?
徐:大麻について、日本では「賛成、反対」のように意見がはっきりしている人はごく一部で、「知らない、興味がない」人が多勢を占めると見ています。この、いわゆる「無関心層」へアプローチすることが鍵だと考えます。そのためにも、嘘や誇張がない現実に即した情報を発信し、少しずつ信頼を積み上げていくことが重要と考えます。
例えば、CBD製品は現在、国内のデパートやオシャレなカフェでも販売されています。こうした新たな動きは、これまで大麻に関心を持たなかったような層にアピールできるチャンスではないでしょうか。例えば、私が調査に訪れたオランダでは、嗜好目的で大麻を使用することもできるのですが、ドラッグストアチェーンに行けばCBD製品が棚に並んでいます。また、海外では、終末医療や慢性疼痛の分野において、いわゆる医薬品だけでは問題を解決できず、「大麻という薬草」を用いて、少しでも身体を楽な状態にし、QOLを上げているという事例も多く出てきています。オランダでも、厳格な品質コントロールの下、医師により乾燥大麻が処方されています。一言で「大麻」といっても、用いる人、用い方、ニーズや目的はさまざまだということです。そういった率直な情報を「信頼できる形」で日本社会に伝えることも大麻のイメージを変えるためには有効だと思います。
徐先生が研究の取材で訪れたオランダ・アムステルダムの写真
参考
1:諸外国における大麻合法化の動きと日本の薬物乱用防止教育:ヘルスコミュニケーションにおける「信頼」の問題
3:薬物問題についての最近の動向と大学生を対象とした薬物乱用防止教育
取材:2022年10月31日